中医学における「肺」とは何か [蔵象観の起源と真実]

二千年以上昔に編纂された古代中国の医学書である『黄帝内経』にも、「呼吸」の文字が記されています。しかしそれは、現代医学における呼吸の意味とは異なるものです。このことに留意して読まないと、現代中医学の、蔵象観における「肺」の解釈のような過ちを犯すことになります。
 
西洋医学を翻訳する際に、古典の記述から「呼吸」の文字が使用されたことに加え、現代人なら誰もが知っているため、古代中国においても医学的な呼吸を知っていたものと錯覚してしまうのです。しかし、『黄帝内経』における「呼吸」とは肺のガス交換を意味するものではありません。

呼吸と聞けば、現代人であっても「呼吸運動」を思い浮かべるでしょうし、呼吸の状態は肺の病状を示すものとして重要な症状ではあります。しかし本来、呼吸の意味とは、肺胞内の空気と血液および血液と組織細胞との間のガス交換のことです。さらに言えば、生化学的にはATPを合成するための酸化的リン酸化反応のことです。正にこれこそが、ガス交換によって細胞組織へと運搬された酸素の役目であり、それは一連の呼吸反応におけるアンカーとしての存在です。

では、『黄帝内経』における呼吸とは如何なる機能でしょうか。その「呼吸」の文字が本来意味することを検証すると、現代中医学の蔵象観の問題点が明らかとなります。

現代の中医学書には、肺は「一身の気を主る」や、「呼吸の気を主る」、あるいは「呼吸を司る」などと記されています。そして、これは「肺が体内外の気体交換を行う場所であり、肺の呼吸を通じて自然界の精気を吸入し、体内の濁気を呼出するからである。」と説明されています。

しかし、これらの解説は、現代医学を都合良く借用して『黄帝内経』の認識を歪曲して解説した詭弁と言えます。『黄帝内経』にはこのような記述も、認識も存在しないのです。そもそも、物質としての空気の存在やガス交換としての肺呼吸など、全く知る由もなかった古代の人間には不可能な認識なのです。要するに、吸った空気と吐き出した空気の物質的違いなど想像すらしていないのです。しかも、「精気を吸入し、体内の濁気を呼出する」とする解説は、医学知識を拝借したにしてはあまりにも稚拙と言えます。

先ず、「呼吸」を認識していたとする中医学書による解説の根拠について、原典の記述を基に検証します。

『黄帝内経』に記された「肺」の機能と病態 

機能
・気を主り、呼吸を主る
・通調水道
・百脈を統括する

病態
・喘咳

尚、「通調水道」と「百脈の統括」については、以前に「経脈別論に見る初期素問の生理観」にて解説済みであることと、その理論は生理学的には無意味であるため省略します。

機能

『霊枢』邪客篇:
 「故宗気積干胸中.出干喉嚨.以貫心脈.而呼吸焉」

訳:「故に宗気は胸中に積み.喉嚨に出で.以て心脈を貫き.而して呼吸を行う.」
 「宗気」の説明は「絡脈」の解説で述べていますが、簡単に説明しますと、心窩部に感じられる鼓動の本体(心臓の拍動とは認識できなかった)として想像したものであり、この力を脈の原動力として捉えています。同時に、この篇では、呼吸の動作の原動力として想像したものであり、呼吸の本質的意味を示したものではありません。

『霊枢』動輸篇:
 「胃為五蔵六府之海.其清気上注干肺.肺気従太陰而行之.其行也.以息往来.故人一呼脈再動.一吸脈亦再動.呼吸不巳.故動而不止.」

訳:「胃は五臓六腑の海と為す.其の清気は上りて肺に注ぎ.肺気は太陰に従いて行く.その行くこと.息を以て往来す.故に、人一呼にて脈再動し.一吸にて亦再動す.呼吸やまず.故に動じて止まず.」
 胃から上る清気とは、「動脈中に存在すると考えた何らかの作用・力」を意味し、呼吸の動きを脈の原動力として捉えた認識です。つまり、呼吸の動きを、恰もポンプ作用のように見立てた発想です。

『素問』陰陽応象大論篇:
 「天気通於肺.地気 通於溢.風気通於肝.雷気通於心.谷気通於脾.雨気通於腎.」
 
訳:「天気は肺に通じ.」
 この節では、自然現象になぞらえて、それぞれの臓腑を配当しています。医学的な呼吸を示唆するものではありません。

『素問』五蔵生成篇:「諸気者.皆属於肺.」
 
訳:「諸々の気は.皆肺に属す.」
この考えは、「経脈別論」の解説と同様であり、上行大動脈を気管と誤認し、"気"すなわち動脈中にある「何らかの力・作用」が肺に属すと考えたものです。

病態

『素問』五蔵生成篇:「咳嗽上気.厥在胸中.」
 
訳:「咳嗽上気は.厥胸中にあり」
 咳と、上気(気喘)、すなわち呼吸困難は胸中に原因があると考えています。 

『素問』蔵気法時論篇:「肺病者.喘咳逆気.肩背痛.汗出.尻陰股膝.髀腨胻足皆痛.虚則少気不能報息.耳聾嗌乾.」

訳:「肺病なる者は.喘咳逆気し.肩背痛み.汗出で.尻陰股膝.骨盤ふくらはぎ脛足皆痛む.虚則ち少気して息できず.耳聞こえず喉乾く.」 
 症状として、咳をしてあへぐ、呼吸困難、肩背が痛み、汗が出るは発熱、細菌の転移による関節炎、および急性中耳炎によると考えられる聴覚障害など、何れも肺炎による症状です。恐らく、肺病者とは細菌性肺炎の症状を示したものです。

『素問』大奇論篇:「肺之雍.喘而両胠満.」

訳:「肺の雍(よう).喘して両胠満す」
肺が塞がると、呼吸困難となって両脇が膨満する。喘息が考えられる。

『素問』標本病伝論篇:「肺病喘咳.三日而脇支満痛.一日身重体痛.五日而脹.十日不已死.」

 訳:「肺病は喘咳し.三日にして脇張って痛み.一日にして身重く痛む.十日にして已えざれば死す」
 肺炎の急性発症としての、悪寒、発熱の記載はありませんが、臨床症状の中心となる、胸痛、呼吸困難、せきが記され、また、細菌の転移によると考えられる、関節炎の症状が記されおり、死亡することも記されていることから細菌性肺炎の可能性が高いと考えられます。

以上をまとめますと、蔵象学説における「肺」とは。

中医学書が、肺の機能として示している「呼吸」の記述は、その全てがガス交換機能を認識したものでないことは明白です。『黄帝内経』に記された「呼吸」は、医学的な本来の「呼吸」を意味するものではありません。

呼吸の文字は、上古天真論篇に「…有真人者…呼吸精気.」と示されていますが、この「呼吸」の文字の意味は医学的な呼吸とは違います。張景岳の説によれば、「呼は、天に接しているから気に通じる」、「吸は、地に接しているから精に通じる」と記されており、それは、真人の能力として想像したものです。

さらに、最近の中医学書には、肺の機能として「宣発と粛降」作用なるものが記されています。「宣発」は、肺の気化作用を通じて、体内の濁気を排出する作用で、「粛降」とは、自然界の精気を吸入し、呼吸道の清潔を保持する作用と解説されています。この最もらしい解説をそのまま信じている鍼灸師も多いのではないでしょうか。

『素問』蔵気法事論篇の「肺苦気上逆」や、至真要大論篇の「諸気膹鬱.皆属於肺」には、肺の病症として、息が急迫してあえぐさまが記述されてはいます。しかし、「宣発・粛降」のような『黄帝内経』には存在しない単語を創作して、「肺気失宣」や「肺失粛候」などの病変によって咳嗽や喘息が起こるとして説明することに、医学的価値はありません。

また、『素問』五蔵生成篇の、「肺之合皮也.其栄毛也」についての解説はあまりにも非医学的です。中医学書では、「中医学では汗孔のことを気門と称しているが、汗孔は汗の排出を行っているだけではなく、実際上は肺の宣発・粛降により体内外の気体の交換も行っている。」また、別の解説では、「肺は呼吸器であり、皮膚にも呼吸作用があるので、」などと記されています。

汗腺は汗を分泌し、この汗の蒸発による気化熱の発散によって体温調節を行っている排泄器官に過ぎません。「皮膚呼吸」と呼ばれる言葉は、いい加減な映画やテレビなどでは時折聞かれる言葉ですが、全くのデマであり、医学知識が欠如した極めて稚拙な解説です。

肺の病状は、咳や呼吸困難、胸部の痛みなどから、古代の人間にも想像し易かったであろうと思われ、肺炎や喘息を特定の疾患として認識しています。しかし、認識し得たのは症状のみであり、その症状発現のメカニズムや病態を科学的に究明しようとする問題意識はありませんでした。症状発現の原因として考えたことは、陰陽虚実や、風邪、湿邪など、当時の思想や自然観による解釈であり、その後もここから進歩することはありませんでした。
 
『黄帝内経』編纂当時にも、食物から何らかの物的要素や作用・力を得ていることは想像していますが、医学的な意味での栄養素ではありません。同様に、息を吸い込むことは解っていても、物質の認識が無かった時代であり、空気の存在を知ることも不可能でした。何を吸い込み、吸い込んだ物が体内でどの様に働くかについては何も想像してはいないのです。注目しているのは呼吸の動作であり、これをポンプの様に見立てて脈の運行の動力源として捉えているのです。

『黄帝内経』編纂当時は、「木、火、土、金、水」を世界の根元物質とする「五行説」の時代でした。西洋でも、エンペドクレスやアリストテレスらによって「水,土,空気,火」を根元物質とする「四元素説」が唱えられており、世界各地に同様の思想が存在していました。これらは遙か古代の思想史の話ですが、現代においても、この陰陽五行説を深謀して診療している古典派は多く存在します。

因みに、同時代の西洋医学の認識を見ると。当時は中国と同様、血液が循環するという 考えは全くありませんでした。「基礎医学の祖」と言われる、ガレノス(Claudius Galenos; 130-201)は、腸管で吸収された栄養素は静脈によって肝臓に運ばれ、ここで「自然のプネウマ」を受けて血液が造られると考えていました。造られた血液は大静脈によって心臓の右室に運ばれ、その後、肺に運ばれて浄化され、肺動脈によって心臓の右室に戻ると考えました。外界から肺に入った空気も「自然のプネウマ」となり、静脈によって心臓の左室に運ばれ、ここで右室からきた血液と混じることで(右室と左室の間の隔壁には孔があると信じられていた)」「命のプネウマ」になる。「命のプネウマ」は、心臓の左室から出る動脈によって全身に運ばれると考えられていました。但し、ここに記された「空気」とは、当然ながら、科学的な物質として認識したものではありません。

イギリスの医者メイヨウ(1645-79)は生命に必要な空気中の物質を「火の空気」と呼びましたが、これも漠然とした想像にすぎず、酸素がシューレやプリ-ストリによって捕らえられたのはその一世紀後でした。また、ドルトンによって、物質を構成する最小の粒子を原子とする、「原子説」が提唱されたのは1803年のことです。『黄帝内経』の記述は全て、二千年以上昔の素朴な自然観を基にした認識であり、現代医学における生理学や科学的な物質と混同してはならないのです。

テレビコマーシャルで、「漢方に学んだ、、。」などと言っています。私には詭弁としか思えません。考え方には、古代の思想にも学ぶべきことはあると思いますが、診療理論としての価値はありません。

(尚、この記事は、現在執筆中の原稿の一部を抜き書きし、少し手直ししてまとめたものです。)

追伸
2015年1月に、「中医学の誤謬と詭弁」を出版しました。本書は、黄帝内経における「臓腑経絡概念」の本質を解読・検証したものです。市販はしておりませんが、希望者には販売しています。詳しくは、カテゴリーの「出版のお知らせ」をご覧ください。
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