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まるで植物のような氷の成長 [らくがき]

氷点下15度の朝、北側の窓ガラスにできた氷の造形。あまりに美しかったので写真にとっておいたもの。

妻が古い写真を整理していたところ出てきたもので、撮影場所は1985年頃の御殿場市(標高500m)。
その姿は植物そのもの。氷の結晶の成長も植物細胞の成長も同様の法則に基づく自然現象であり、それは単純な物理化学的性質によるものであることが理解できる。

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私は数学が苦手だが、この葉の成長過程やその形体はフラクタル幾何学で再現できるが、その規則性(Phylotaxis Rules)をフィボナッチ螺旋などで説明することに意味があるとは思わない。実際に、ヒマワリの種を全て正確に調べると、フィボナッチ数列に合っているのは10%程度であると聞く。

このような数学的なルールは、景色や植物、魚の模様などをチューリングの方程式などによってコンピュータで描くことには役立つと思う。しかし、人が数学的に考える葉の付き方や成長のルールは抽象の世界に過ぎず、この規則が現実世界を支配しているわけではない。

結晶の場合には、分子どうしがその性質上付き易い方向に成長する。植物であれば、例えば、葉の原基の成長に必要な成長ホルモンのオーキシンの濃度が古い原基を中心に下がるため、濃度勾配ができて阻害的に働くことで結果的に新しい葉ができる方向が決まってくる。何れも、ごくシンプルな性質の繰り返しによって起きている。

但し、結晶に関しては複雑のようだ。固体結晶の場合、並進対称性が自発的に破れているとのこと。例えば、六方晶系の結晶が円筒状に巻かれた構造をもつカーボンナノチューブでは、原子のある場所と無い場所が明確に別れ、全ての方向に全く同じパターンが配列しているわけではなくムラがある。つまり、結晶とは連続的な空間の対称性を自発的に破る物質らしい。

数学音痴には難しすぎる。それでも、数学的ルールは人が自然現象の規則性を理解するために後付した理屈に過ぎないと思う。

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動物たちの愛情に学ぶこと [らくがき]

「わんニャン倶楽部」という寺脇康文さんの番組の中に、「さち」と言う名のねこの奮闘記がある。この話は、たくさんのねこや犬が暮らしているオートキャンプ場に保護された、生まれつき全身まひのねこの成長の記録。

当初、さちは全く歩けなかったのだが、毎日歩こうと賢明に動いて頑張り、大好きな散歩を毎日続けていた。8年経った今では、辿々しいながらも小走り程度にまで歩ける様になっており、動物の歩こうとする強い意志と回復力には何時もながら感心させられる。

散歩の時など、何時も隣に付き添ってガードしてくれるねこや、毎日何度も、首の後ろなどを軽く咬むようにしてマッサージをしてくれる犬たちにも支えられていた。この番組を見るたび、犬やねこたちの愛情に頭が下がる思いだった。

昨夜の放送では、最近保護されてこのキャンプ場に来た、「けんじ」という子猫とさちの様子が紹介されていた。自分自身が障害をもっているにもかかわらず、けんじを優しく気遣うさちの姿は何とも微笑ましい。

さちは、自分がもらったオヤツを食べ残して寝たふりをし、けんじが気兼ねなく食べられるようにしてあげる。そして、けんじが去った後、わずかに残ったオヤツをまた食べる。さらに、我が子のように一所懸命に毛繕いをしてあげる。その姿は、これまでに仲間達から受けた愛情を、このけんじに恩返しをしているかのようにも見える。

少し前に、岩合さんの番組でも、京都の田舎の農村に住む90歳の老人と「義経」という名のオスねこの暮らしが紹介されていた。毎日、一緒に散歩をすることを楽しみにしている老人と義経のくらしの姿が微笑ましかった。

ある日、一匹の野良猫がこの家にやってきたのだが、そのねこは直後に子ねこを3匹運産んで死んでしまった。すると、義経は、出るはずのない乳を与えようとして懸命に抱きかかえたり、丹念に毛繕いをしてあげているのだ。その姿はまるで、我が子を世話する母ねこのようだった。

恐らく、死んだ母ねこは、我が子をこの老人とねこに託せると考え、最後の力を振り絞って訪ねたのだろう。この母ねこの切ない思いと賢明な判断力、そして、義経の人間と遜色のない愛情に感動させられた。

その後も、仲むつまじく1人と4匹は穏やかに暮らしている。

ところで、愛情豊かなのはねこや犬だけではなく、魚にも仲間を気遣う愛情があるのだ。

以前にたまたま見たNHKの画像が衝撃的だった。アジの群れがゆっくりと移動していたのだが、その中の一匹が群れから遅れて沈んでいった。その時、何と、数匹のアジが引き返し、このアジを周囲から支えて群れに戻そうとしたのだ。しばらくの間、このアジたちは入れ替わり立ち替わりに頑張ったのだが、そのアジはだいぶ弱っていて応援もむなしくさらに沈んでいった。その後、他のアジたちはついにあきらめて群れに戻っていったのだが、この愛情溢れる行為には感動させられた。

動物たちにも人と変わらぬ知性や愛情があることを謙虚に認め、学ぶべきだろう。

ここで、動物たちにも備わっている思考とは如何なるものか、などと言い出すと興ざめだろうか。しかし、意識や思考のメカニズムを解明する上で貴重であると考えられる。

人は言語や数字を発明したことで、とかくこれらの手段によって思考する癖がついてしまった。それ故、意識して考える時にはどうしても言語に頼らざるを得ない。したがって、言語によらない思考能力は退化したように思われるが、実際には、脳の深層において日々頻繁に行われている。

例えば、とっさに危険を察知して回避する時や、見本やデッサンから形をイメージして彫刻などを作る時。あるいは、人の表情の一瞬の曇りから感情の変化を読み取る時、何かのひらめきによって発見・発明をするなど、何れも言語によらない思考である。

では、動物たちの思考のメカニズムは如何なるものなのか。人とは全く違うものか。私にはそうではないように思われる。彼らは言語的に思考しているわけではないが、その愛情による行動は人と比べても遜色がないように思われる。ノーム・チョムスキーが提唱した「普遍文法」のように、言語の文法には基本となる法則が先天的に備わっており、それは脳に由来している。この法則があることで、人は生後自然に言語を習得でき、また、自動翻訳も可能となった。しかし、さらに、普遍文法を生み出すその前段階となる共通法則が多くの動物の脳に備わっており、それは最も古い脳である感情領域に存在するのではないだろうか。

これらは意識の原初的な段階と言えるかも知れない。その思考の過程こそはっきりとは認識されないものの、深層の神経回路では常時無数の思考が繰り広げられている。それは、いわゆる「Serendipity;偶察力」とも通じるが、これらの深層で行われている思考を素直にくみ上げることによってうまく生かせれば、発見や発明などに役立つだけではなく、脳機能をさらに進化させられるのではないだろうか。

「意識とは何か」、最近は、ファンクショナルMRIなどによって意識の研究がようやく実験の俎上に上げられるようになった。とは言え、未だ未解明の最重要テーマであることに代わりは無い。

何かを見たと認識することをコンシャスアクセスをもつと言うが、単に見た段階で数十億の視覚ニューロンが活動し、その後、約0.5秒遅れて意識は活動する。この意識が構成される場を、スタニラス・ドゥアンヌらは、「グローバル・ニューロナル・ワークスペース」と提唱し、そのメカニズムを実験によって追求している。しかし、如何にして無意識から意識的な感覚が生ずるのか、思考するとは如何なることかなど、意識の謎は解き明かされていない(意識と脳-思考はいかにコード化されるか:スタニラス・ドゥアンヌ著 2013.9.16.紀伊國屋書店)。

追伸
「わんニャン倶楽部」から。
昨夜(3月28日)の放送で、とてもいいものを見せてもらいました。
3匹のネコがボス的存在を争って威嚇し合う場面があったのですが、いつも、さちにマッサージをしてあげるハッピーという犬が間に分け入って止めたのです。その後、別の場所で再び威嚇しあったのですが、今度は、いつもさちの散歩の際にボディーガードをしているゴローというねこが間に入って止めたのです。さらに、今度は、このゴローに懐いていつも一緒に行動していたけんじが、未だ生後2ヶ月ほどの子ねこなのですが、止めに入ったのです。このけんじは、保護されてこの施設にきてから、さちに毛ずくろいなどの面倒を見てもらっていて、寝るときはいつも大好きなさちと一緒でした。最近では、このけんじがさちのボディーガードもしており、威嚇騒動がさちのすぐ近くで生じたためにかばって止めに入ったのです。 

見て見ぬふりをすることが多くなってしまった人間社会よりも、ずっとヒューマンな犬やねこたちに感動させられました。この番組を知ったのは最近ですが、この放送で終了とのことです。いいものをたくさん見せていただき感謝するとともに、非常に残念です。
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検査を超える脳の判断力を生かせないか [らくがき]

私が昔勤務していた病院での経験から。

この病院にはリハビリ専門の分院があり、長期間の訓練を必要とする慢性疾患や急性期を過ぎた脳卒中患者などは順次本院から送られていた。したがって、本院では、整形外科における手術患者を中心として、他に脳外科、神経内科などの患者の一時的な機能訓練をしていた。

整形外科では、自立的な歩行および階段の昇降が可能なことを退院の条件としていた。一部の、重度のパーキンソン病や脊髄小脳変性症(昔の分類)のように、疾患の性質上、入退院を繰り返しながら悪化していく患者を除けば、ほとんどの患者がこの目標を達成して無事に退院することになる。しかし、中には、医師の判断に反して、退院はおろか生きて帰れない患者が時々存在した。

経験から、退院の条件が達成されるか否かは数回訓練をすると患者の様子でほぼ予想でき、さらに、患者の死期が直前にせまっていることも察することができる。私は、機能訓練が患者にとって苦痛でしかなく意味が無いと判断し、さらに、生きて退院できそうにないと感じた患者に対しては、独断で機能訓練を中止していた。その後は患者さんの顔を見るためにベッドサイドへ行くだけにしていた。

このような勝手なことを続けていると、当然、看護婦と医師の間で私に対する批判が出ることになる。しかし、何故か直接文句を言われたことは一度も無かったが、ある日突然、その様な患者さんの所に分院からリハビリ専門医が来た。その医師は、私に告げることも無く、患者さんの評価をして転院させてしまった。

この病院(本院)は、診断能力では大学病院を除けば日本でも1~2と言われていたが、この患者については診断が付いていなかった。にもかかわらず、訓練は可能で退院させられると考えていたようだ(私がサボらなければ)。

しかし、この患者さんは原因不明の発熱が続いており、非常につらそうでとても訓練できるような状態ではなかったのだ。案の定、転院から1月も経たずに亡くなられた。この事実は後から噂で聞いたのであるが、私には一言も告げられなかった。

実は、これと似たケースは他にも数件あったのである。明らかに、日々衰弱していく患者さんのそのカルテには、最近データが良くなっているなどと記されていたが、間もなくこれらの患者さんは亡くなってしまった。医師は、患者さん自身をろくに診ていないのだ。最近は、血液検査のみに頼って患者を良く診ない、さらに、専門外のことには全く関心が無く、診られないことを恥じようともしない医師が増えている。

私が、当時、生きて退院できないと判断した患者で、リハビリの適応ではないためにそのまま退院したものの、その直後に死亡したケースを含めると予想は100%的中している。しかし、これは特殊な能力ではない。

私が死の兆候を知ることになったのは、バイト時代のある外科医の言葉がきっかけであった。ナースステーションに来たその医師は、当日の深夜勤が誰かを聞いたのだが、それは、自分の患者が今夜危ないことを話しておきたかったからなのだ。聞かれたナースが疑問に思いその根拠を聞くと、データによるものではなく全くの勘によるとのことだった。この言葉をヒントにして私も予見できるようになったのだが、これは日々患者さんの顔を良く見ていれば誰にでも解ることなのである。

その判断は目や顔の色、微妙な表情の変化によるが、恐らく、現在のコンピューターによる顔認証などでは不可能だろう。しかし、勘に頼るのではなく、これを裏付ける様なデータを示す検査法と診断基準が必要なのである。例えば、犬は飼い主の臭いで癌の存在を知り教えたり、特定の感染症への罹患患者を嗅ぎ分けるる。しかし、犬を使っての検査では、その訴えの意味を特定することも定量化することもできないため非現実的である。それぞれの疾患によって発せられる臭い分子を見つけ、検査法を構築することが正しい方法である。ガス状分子は簡単に細胞膜を突き抜けて体の外へも出てくるため、血液検査に変わる無侵襲の検査法となることが期待されている。

生から死へと変わるその瞬間とは如何なるものかを知りたい。生死を分ける要因とは何かを解明できれば、死ぬことの直接的な意味や、逆に、生きているとは如何なることかの理解へと繋がると思う。60兆もの細胞と、それを構成する、宇宙全体の星の数よりも遙かに膨大な分子の動きはどの様に制御されているのか。生命現象とは、物理学者が言うように、古典的物理学と量子論的世界の縁において営まれているのか。

話が膨らみ過ぎて意味不明になってしまったが、このような疑問の中に、実は重大な意味が包括されているものと感じている。優秀な医師や生物・物理学者に是非とも解いていただきたい。

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医学的に見た神の実像とは  [らくがき]

伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)の神は、2人にとっての第1子である、蛭子神を葦の舟にのせて川に捨ててしまった。その理由は残酷にも、産まれた子が先天性の疾患であったこと。不具の子が産まれた原因は、女性側から声をかけてしまうタブーを侵したためだと言われている。

私は、この記述に対する批判の声が聞かれないことに疑問を感じていた。全知全能の神、万物を作った神をも規制するタブーとは如何なる力によるものかについて、誰も疑問に思わないようだ。また、全知全能の神の子に先天性の疾患が生じてしまう矛盾と、その子供の病気を治すことすらできない無能ぶり。さらに、病弱の我が子を捨ててしまう酷い行為に対して、現代人は何も疑問を感じずに批判もしないのだろうか。

海に流された蛭子神が流れ着いたとする伝説が各地に残っており、中でも、摂津国の西宮は有名。蛭子神の養父の夷三郎が、後にその名から恵比寿様になったとする説や、蛭子神その人が恵比寿様と呼ばれたとする説もある。しかし当時の医学レベルでは、たとえ生きて何処かの海岸にたどり着けたとしても、その後生きながらえることは不可能。

「蛭子神」の様子は、古事記よりも「日本書紀」に詳しく記されており、3歳になっても足腰が立たなかったとある。この症状から、医学的には遺伝性脊髄性進行性筋萎縮症(Werding Hoffmann病)であると言われている。その筋緊張低下の著しい印象から、“floppy infant(カエルのようなぐにゃぐにゃな児)とも呼ばれる、この疾患は、出生直後から1~2歳で発症するタイプでは急速に悪化するため予後は不良。

古代においては、障害をもって生まれた子供は忌み嫌われ、厄介者として捨てられていたためこの記述を批判する者はいなかったと思われる。即ち、この非人道的な所行は、医学知識も人権意識もなかった時代の一般的な常識の範疇であったため、作者も何らはじることなく記述したものと考えられる。

人を超越した存在として「神」を想定したとしても、結局のところ、人は自身の認識以上のものを想像することはできないのである。つまり、「神」とは人間そのものであり、人間による想像の産物に過ぎないことを、書いた人間自らが露呈しているのである。

神様の名誉のために1つつけ加えると、中には心温まる話も記されている。「出雲風土記」には、味須岐高日子根命(あじすきたかひこねのみこと)は生来の知恵遅れであったが、父の大国主大神によって、高屋(高床式住居)にはしごを掛けて昇降させて訓練した様子が記されている。障害をもって生まれた我が子を捨てる神ばかりではなく、賢明に育てようと努力した神もいた。当時としては進歩的で、微笑ましい話である。

しかしながら、この話からも、万能の神から障害児が生まれる矛盾と、その姿は、リハビリをしなければならないごく普通の人間の親そのものであることが明らかである。

神代史は皇室の権威の由来を説くために作られたものではあるが、その目的とは裏腹に、その内容は、人間が作り上げた想像の産物であることを自ら吐露していると言える。このように、具体的な内容を素直に読み解けば、当時の人間の病気や社会通念が見えてくる。私には、古事記・日本書記の原文を読めるほどの教養は無いが、このような視点で宗教の経典などを冷静に読むことで、その呪縛から解放され、世界の多くの諍いも無くなるのではないだろうか。

追伸

最近の新型コロナ騒ぎでも、祭りなどの寺の行事の中止や、教会内でのミサに代わりに外の駐車場でのお祈りが行われていた。本来、神を背負って厄をはらうはずの神輿も、世界を創成したはずの神々も、何故か、ウイルスには勝てないというだらしのなさ。この様な矛盾を目の当たりにしても、未だ、宗教を盲信し続けるのだろうか。いいかげんに目覚めるべきだ。

尚、この「落書き」は、私が以前に書いていたもう一つのブログの記事、「我が子を捨てた神とリハビリをした神2007-12-24 10:02:53」|を編集して書き直したもの。
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ねこと共生できる都市は人間的 [らくがき]

“世界ネコ歩き”という番組がある。動物写真家の岩合光昭さんが、ネコの目線で世界の街角を撮影したもの。私はテレビはあまり見ないが、妻がこの番組を好きで良くみていることから見るようになった。

この番組に登場するねこたちは、世界各地の田舎の小さな町、農村、漁村で静かにゆったりと人々とくらしている。野良ねこが、通りの真ん中や大勢の人が行き交う広場にいても誰も気にすることも虐めることもない。ねこも、ゆったりとしゃがんでいたり、好きなようにのんびりと歩いている。通行人から名前を呼ばれてなでてもらったり、近所の人からご飯をもらっている。ねこたちもお互いに喧嘩することもなく、仲良く食べていることが多い。

我が家の近所ならこうはいかない。大概の場合、野良ねこは人を見れば逃げてしまうし、近所の人も野良ねこを快くは思っていない。私の家にも一匹ねこがいる。そして、親しい“野良ちゃん”が一匹、ご飯をもらいにくる。しかし、このねこ以外は人を見れば逃げるし、お互いに威嚇し合うため、気の弱いこの“野良ちゃん”は時々追い払われてしまう。人の野良ねこに対する感情と、ねこたちの感情も関係するのであろうか。どーも、日本の野良ねこ達の関係はギスギスしているようだ。

岩合さんは「ねこは人間とともに世界に広まった。だからその土地のねこはその土地の人間に似る。」と言っている。確かにそう思える。岩合さんが写す街角では、ねこの姿はごく自然に街に溶け込んでいて、人とねこ達と街並みが一体になり、共に穏やかに暮らしている。この番組を見ていると幸せな気持ちにさせてくれると同時に、このような町の環境と、人とねこが穏やかに共生することこそ本来の姿に思われてならない。

この街に移って31年、もう東京には住めない。“◯◯ヒルズ”とかの、高層ビルを中心にした商業施設が雨後の竹の子のごとく乱立し、同時に、周辺の郊外へのスプロールを拡大した。しかし最近では、地方経済の疲弊によって東京への回帰が起こり、都心では益々高層ビル群が増えている。一方、世界に目を向ければ、イタリアやイギリスのように、高層ビル群などによる質的拡大から、時代は「コンパクトシティ」の発想へと向かっている。

古い住宅群を公的資金を活用して修復再生し、地域の文化に合った個性的で人間らしい生活環境を実現する道へとシフトしている。古い建物の修復再生に加え、もう一つ重要なポイントは住空間から車を閉め出すことである。実際に実行してみると、商店は賑わいを取り戻し、治安も改善したという (陣内秀信著:イタリア都市の空間人類学より)。“世界ネコ歩き”の場面でも、車が激しく行き交う様はほとんど見かけることはなく、長閑さを感じる要因はこのことかと納得できる。

現代は、IoTの進化によって限界費用ゼロ社会に向かいつつあり、資本主義はその自己矛盾からすでに衰退の兆候が現れている。物もエネルギーも地産地消となる、水平分散型の協働型コモンズに移行し始めている現在、都市環境を含めた生活様式を考え直す時のように思う(ジェレミー・リフキン著:限界費用ゼロ社会より)。

ねこや犬達は感情が豊かで知性的、そして何よりもピュアである。

追伸 

現在、5匹の野良ちゃんがご飯を食べに来ています。その内の2匹は家の中に入って食べ、その中の1匹は、お泊まりもします。
(2023.9.4. 記)
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医学生はうつ病や自殺念慮のリスクが高い [らくがき]

医学生における自殺念慮・抑うつ症・うつ病の有病率を推定した調査の結果、うつ病や抑うつ症の有病率は27.2% で、自殺念慮は11.1% 。

研究は、EMBASE, ERIC, MEDLINE, psycARTICLES, およびpsycINFOをデータソースとする Systematic search。うつ病やうつ症状の有病率データは、43カ国から、167の横断的研究 (n = 116, 628)と、16 の縦断的研究 (n = 5,728)による。

うつ病やうつ症状の全体的なプールされた粗罹患率は27.2% (37 933/122 356 individuals; 95% CI, 24.7% to 29.9%, I2 = 98.9%)と、3割近い。

9 縦断的研究 (n = 2432)では、1982 ~ 2015 年の範囲で年間 0.2% 増加(95 %ci, −0.2% to 0.7%)。絶対増加量の中央値は13.5% (range, 0.6% to 35.3%)。

15カ国、24の横断的研究から得られた (n = 21, 002)自殺念慮の粗罹患率は11.1% (2043/21 002 individuals; 95% CI, 9.0% to 13.7%, I2 = 95.8%)。有病率の推定値は7.4% to 24.2%。

大うつ病エピソードの過去1年間における調査(米国)では、1991年-1992年から 2001-2002 年の間に、成人のうつ病の有病率が 3.33% から 7.06% に増加したと報告。

大うつ病の評価であり、単純には比較できないものの、医学生のうつ病罹患率が3割近いのはやはり異常。ストレスが多いせいか?

Wilson M. Compton , Kevin P. Conway , et al.,
Changes in the Prevalence of Major Depression and Comorbid Substance Use Disorders in the United States Between 1991–1992 and 2001–2002
THE AMERICAN JOURNAL OF PSYCHIATRY, Volume 163, Issue 12, December, 2006, pp. 2141-2147

出典文献
Lisa S. Rotenstein, Marco A. Ramos, Matthew Torre, et al.,
Prevalence of Depression, Depressive Symptoms, and Suicidal Ideation Among Medical Students : A Systematic Review and Meta-Analysis.
JAMA. 2016;316(21):2214-2236. doi:10.1001/jama.2016.17324

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プラシーボ効果を論ずる前に [らくがき]

無作為化臨床試験において、プラシーボ対照群のバリエーション(偽鍼治療、偽手術、偽薬)による効果の違いを調査した報告(2013)に一言。

そもそも、「プラシーボ効果」の定義、「偽鍼治療」と正規の「鍼治療」との区別の問題など、私には、研究の前提そのものが疑問。

102件の文献からデータが不十分な23件を除いた、79件の研究をメタ回帰分析したもの。調査対象となった疾患は片頭痛で、プラシーボは、偽鍼治療、偽手術、および偽薬(経口)。偽鍼治療とは、正規の経穴位置から外れた部位への刺鍼を意味する。

効果の判定は、治療によって頭痛スコア数の少なくとも50%の減少、および片頭痛日数の50%以上の減少をレスポンダーとして、その割合で評価。

各治療のレスポンダー率は、偽鍼0.38 [95 %ci、0.30- 0.47]、偽手術 0.58 [0.37- 0.77]、偽薬0.22 [0.17- 0.28]で、偽鍼治療の偽薬との比較ではオッズ比1.88 [95% CI, 1.30-2.72]。

結果は、偽薬が効果が最も低く、偽手術が最も高い。

しかし、治療部位の選択の根拠、正穴の位置に意味があるのか、プラシーボ効果に定義が無いことなど、多くの疑問有り。

鍼治療に関する医学研究は、そのほぼ全てが中医学の考えに従って、教科書に記された経穴の位置を目標として単純に刺すことを正規の治療ないしは伝統的鍼治療と位置ずけ、この手順を踏襲すれば全てが済んでしまう。鍼灸師は、各自が見いだしたポイントを使用しますが、そのポイントは必ずしも一般的な経穴ではなく、反応するポイントも変動するのが普通のこと。さらに、刺す深度も手技も症状や内部の性状によって変える。これらが適切であって初めて効果が得られる。

選穴および刺鍼に際し、医学的なコンセプトが全く無いまま、無意味な中医学理論(私の説)を根拠として、疾患別に教科書に羅列された経穴に、触診による判断もせずにただ単純に刺すだけで正しい鍼治療をしましたと言ってのける。このような、おざなりの研究が「無作為化臨床試験」などと称し、質の高い研究として堂々と報告され、鍼治療の効果として論じられている現状は稚拙そのもの。

さらに言えば、「プラシーボ効果」には定義すらなく、その解釈も極めて曖昧。そもそも、「placebo」とは医学用語ではない。

「placebo」はラテン語で、英語で言えば「I shall please」。カソリックにおける聖務日課の第6番目の、日没時の祈りの冒頭の言葉で。本来は、神の祝福がありますようにとする死者への挽課であるため、葬儀の際にも述べられていた。

しかし、1300年頃になると、葬儀の際にplaceboを唱えて嘘泣きをして場の雰囲気を盛り上げ、金をせびる「泣き屋」が現れた。その結果、彼らに対する蔑視から、placeboには「偽」の汚名がついてしまったとのこと(The Placebo effect, Walter A. Brown, Scientic American, January 1998)。

医学研究において治療効果の判定に使用するのであれば、その前提として、正確な定義ずけが必須のはず。

さらに、考慮すべきは疾患によって偽薬の効果にも大きな差が生じること。偽薬による効果は、一般的には30~40%と言われている。しかし、狭心症など、ストレスが影響するような疾患では効果は大きいものの、疾患によってはほとんど無効となる。同じ疾患の患者でも、生化学的な検査データの違いによって効果に違いが出るなど、受ける側のファクターは複雑。

特に、手術には大きな期待感があるようで、偽手術でも効果は大きい。

興味深い話がある(前述のサイエンス)。1950年代の研究(カンザス大学,Edmunds G. Dimond.)で、当時、狭心症の治療で盛んに行われていた、前胸動脈の結紮術の効果を調べたところ、手術をした13人中76%が軽快したが、胸部の皮膚を切開しただけの5人は全例が軽快してしまった。無論、このナンセンスな手術は現在行われてはいないが、これが外科の歴史。

また、完全な偽薬を治療に使用する場合には倫理的な問題がある。薬剤の成分を大幅に少なくしても、同様の効果が得られ、同時に、副作用の削減ができれば意義はあるが、本人への説明の可否の問題は残る。最近の研究で、手術後の鎮痛剤に、本人に対して「偽薬」と説明した上で偽薬をプラスしたところ、より鎮痛効果が高かったと報告されており、病院の権威や医師に対する信頼がその効果の要因として大きい。

個人的には、「プラシーボ効果」という曖昧な言葉は使用すべきではないと考える。

出典文献
Differential Effectiveness of Placebo Treatments: A Systematic Review of Migraine Prophylaxis
Karin Meissner, Margrit Fässler, Gerta Rücker, et al.,
JAMA Intern Med. 2013;173(21):1941-1951. doi:10.1001/jamainternmed.2013.10391
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悪法に守られた輸出大企業 [らくがき]

消費税法7条:本邦から輸出として行われる資産の譲渡又は貸付については消費税を免除する。

この法令は、国内で流通する製品には課税されるが、その製品が輸出品である場合には税金が免除され、尚かつ、流通過程で発生した消費税についても生産業者に還付金として返納されるというもの。

この還付金は半端な額ではない。輸出割戻し税として、輸出大企業上位10社でに消費税7,837億円が還付(2015年度、税率8%で1.8倍)還付されている。この還付金は、あのトヨタ自動車1 社で2,594億円にもなります。

消費税率アップを経団連が主張するの動機がここにあります。あの連中が、消費税を上げるべきなどと主張することの裏にある真実。

私が知る範囲で少し説明します(間違いが有ればご教授下さい)。

「輸出免税」といわれる規定は、GATTにより規定された消費地課税主義を根拠にしていると言われている。海外の消費者に、国内の消費税を負担させられないこと、また、輸出企業の価格競争力を阻害しないためとも言えます。

つまり、輸出の売上げは課税対象でも、消費税は免除されるということ。しかし、問題はこれだけではありません。

還付の仕組み

輸出の売上げを当てはめてみると、ある輸出企業AがBという企業から商品を1050円(消費税込み)で仕入れて、海外に2000円で輸出したとする。課税売上げは2000円だが、消費税は免除されているので、売上に係る消費税額は0円です。課税仕入は1050円ですから、課税仕入に係る消費税額は50円です。

ここからが問題です。消費税の納税額は「0円-50円=-50円になります。その結果、50円が輸出企業Aに還付されます。これが、輸出企業に消費税が還付される仕組みです。

 また、輸出取引の場合、国庫に一旦入った税金(上記の例ではBが納付する消費税)が、国庫から輸出企業に還付金として出て行くこになります。その結果、国庫には1円も入らないのです。この仕組みが、他の国内の取引と大きく違うところです。正に、強者のための税制と言えます。

トヨタの様な巨大企業の場合、中小下請け企業からの仕入代金の価格決定権を事実上もっていますので、上記のような取引において、1050円の仕入代金から消費税分を差し引いた1000円に値引きすることもあるでしょう(強引に)。この場合でも、輸出企業には約47円の還付金が入ることになります。このような還付金は、その実態は「輸出助成金」とも言えます。

消費税の税率アップを経団連が平然と主張できる、本当の理由が此処に有るのではないでしょうか。実体として、消費税は経済的弱者から強者への所得移転を促す大企業(輸出)優遇の税制と言えます。

未熟な知識ですので、間違いが含まれている可能性は有ります。しかし、以前より納得できませんでしたので、「トヨタ」の記事に触発されて書いてみました。

* 参照:消費税の非課税取引について
1 土地の譲渡、貸付けなど
2 社債、株式等の譲渡、支払手段の譲渡など
3 利子、保証料、保険料など
4 郵便切手、印紙などの譲渡
5 商品券、プリペイドカードなどの譲渡
6 住民票、戸籍抄本等の行政手数料など
7 国際郵便為替、外国為替など
8 社会保険医療など
9 社会福祉事業など
10 学校の授業料、入学検定料、入学金、施設設備費など
11 お産費用など
12 埋葬料、火葬料
13 身体障害者用物品の譲渡、貸付けなど
14 検定済み教科書等の譲渡
15 住宅の貸付け

相撲を国技と呼ぶ誤解 [らくがき]

この日本には、国が定めた「国技」は存在しません。

当然、文部科学省も相撲を国技として認めていません。国民的スポーツと、国家が定める「国技」とは別物です。

相撲を国技と誤解したその根本原因は、相撲の常設館を「国技館」と命名したことに端を発します。そして今では、世間のほとんどの人が「相撲を国技」と思いこんでいます。

“国技館命名の経緯”

相撲常設館の開館式(明治42年6月2日)が間近に迫った5月29日に、板垣伯爵を委員長とする常設館委員会の会合が回向院大広間で行われました。主要議題は館名の決定でした。間際になっても館名は決まっていなかったのです。

板垣伯爵は角觝(すもう)尚武館を提案しました。ところがこの案では決まらず、他の委員から尚武館、東京大角力尚武館、大相撲常設館尚武館、相撲館といった対案が出されましたが決まりませんでした。結局、委員として参加していた協会年寄に一任することにして散会となりました。

早速、協会年寄は協会役員を集めて館名について協議しました。この席で、尾車文五郎検査役は「国技館」を提案し、一同の賛同が得られました。この館名は板垣伯爵の了承も得て正式決定されました。

この名称は初興業披露状の中にある、「…角力は日本の国技…」からヒントを得たものでした。この文章は、「江見水陰」によって作成された初興業披露文の中に記されたものです。初興業披露状は、「大角力常設館完成」を表題、「初興業御披露」を副題として書かれたものです。  

本文の核心部分を抜粋しますと、「大角力常設館全く成り、来る五月初興業仕るに就いて、御披露申し上げます。…… 事新しく申し上ぐるも如何なれど抑も角力は日本の国技、歴代の朝廷之を奨励せられ、相撲節会の盛事は、尚武の気を養い来たり。年々此議行われて、力士の面目ために一段の栄を加え来たりしも、中世廃れて、遺憾ながら今日に及んで居ります」と記されています。

奈良時代に始まり、1174年まで続いた宮中定例儀式の相撲節会(せちえ)を、「角力は日本の国技」の根拠としているようです。皇室との深い関わりから国技として自負した様です。

しかし板垣本人は、6月2日の開館式での会館委員長としての式辞朗読の後で、次のようなコメントをしています。

「国技館なんて云ひ悪(にく)い六(むず)かしい名を附けたのは誠に拙者の不行届きで今更栓なけれど、実は式辞言句中にある武育館とすれば、常設館の性質や目的も明判し、且、俚耳(りじ)にも入り易いのに惜しいことをした。(東京朝日新聞 明治42年6月4日)

しかし、この名称のイメージが「相撲は国技」などという間違いに市民権を与えることになりました。今では大新聞も堂々と国技と書いています。

陰陽五行説という偶像 [らくがき]

ラジオを聞いていますと、「陰陽五行説」を宇宙の真理の如く、実しやかに話している人がおります。それは、古代中国の漢の時代に流行した、一思想に過ぎません。しかし、現代においても古典を信奉する鍼灸師達は、この古代の思想をそのまま診療理論として活用しています。
 
お節介ながら、知らない一般の方のために少し説明します。

中医学書(東洋医学書)では、陰陽五行説について、「人体の生理機能や病理変化を分析論証して臨床診断と治療を導き、中医学の指導的思想および重要な組成成分となっている。」などと記しています。五行説は、宇宙間の全ての事物が、木・火・土・金・水の5種類の基本物質から成り立っているとする、古代の自然観を基にした思想に過ぎないものであり、本来、医学の一分野としての鍼灸学からは、真っ先に捨て去るべきものとです。その内容を簡単に説明しますと。

陰陽五行説とは、「陰陽説」と「五行説」という、本来は別の思想が一つに組み合わされたものです。「陰陽説」は、中国最古の王と言われる伏羲が作ったと言われています。これは、天地万物はすべて陰と陽から成り立っているとする二元論です。現代物理学に通じるものがあるように思われますが、陰陽論は、世界の全てが陰陽の対立で成り立っているとする考えであり、その中身は物理学とは全く違うものです。
 
もう一方の、「五行説」は、夏の国の聖王「禺」が作ったもので、洛水からはい上がってきた一匹の亀の甲羅がヒントになったと言われています。その発想は、「水は土地を潤し、穀物を養い、集まって川となって流れ、海に入って鹹(しお)となる。火は上に燃え上がり、焦げて苦くなる。木は曲がったものも真っ直ぐなものもあり、その実は酸っぱい。金は形を変えて刀や鍬となり、味は辛い。土は種を実らせ、その実は甘い。」であり、五つの味、五行五味の調和を政治の基本と考えたのです。この考えは、陰陽家の鄒衍によって五つの惑星、さらに万物に当てはめられて観念的な思想として完成しました。
 
『霊枢』五味論篇に記された「五味各走其所喜」にあるように、五味がそれぞれ喜ぶ所へ走るとは、すでに五種類の味を認識し、現代医学の栄養素的なものを想像していたことが推測できます。しかし、医学的な栄養素とは異なること、さらに、物質の認識は無かったことに留意する必要があります。中医学では、味だけではなく、臓器や色、季節など、あらゆるものをこの5種類の属性に配当して診療理論としています。五行の属性は、「五欲」「五悪」「五虫」「五神」「五畜」さらに「五刑」など、多岐に渡ります。例えば、「五刑」では、死刑の「大辟」、男性の性器を取り、女性では幽閉する「官刑」、足を切り取る「剕刑」、鼻をそぎ取る「劓刑」、入れ墨をする「墨刑」などです。このように、「5」という数字に拘るあまり、脈絡の無いあらゆる事象を強引に5種類の属性に押し込めてしまいました。「5」という数字に執着した動機は人間の指の数にあり、十進法が両手の十本の指を使って数を数えたことに由来することと同様です。

そもそも、このような思想は古代中国のみに存在した訳ではなく、当時の世界ではごくありふれたものでした。古代ギリシャのアナクシメネスは、空気(科学的な物質ではなく)が全ての元になり、それが稀化して火となり、濃化して水となり、さらに土になると考え、地水火風とエーテルを合わせた五元素説を唱えました。

また、アリストテレスは、乾きと湿り、冷と熱から全ての物質や現象が生じるとする、四元素説を説いていました。ピタゴラスは4を初めての平方数とし、聖なる数と考えていました。古代インドのアーユルヴェーダでも、自然元素を地・水・火・風・空の五種類に分け、これらが身体の要素に変換されると考えました。

仏教医学では、地・水・火・風を物質の構成要素と考えていたなどです。何れも、物理学的な物質の認識が無かった時代の素朴な自然観であり、身の回りの物や目に見える自然現象から発想する以外には方法が無かったのです。

中医学では、五行説をさらに発展させ、「木、火、土、金、水」を、それぞれ星形五角形の頂点に位置づけ、この順序で次ぎを生む関係(相生)と、1つおいた次に対して勝つ関係(相剋)とする、相生相剋関係を考え出しました。この考えは、現代においてもなお、診療理論として中医学書に記されているのは笑止と言えます。

その論理とは、木は火を生じ、水は火を消すなど、もっともらしく語られていますが、言葉の遊び程度のものであり科学とはおよそ無縁なものです。これを、一部の医師までもがシステム論的などと評する稚拙さは、何とも信じがたいのです。

このような星形ペンタグラムは、中性のヨーロッパでは魔よけとして用いられました。終点が無いことと、それぞれの線分が他の線分を黄金分割することに神秘性を感じ、悪魔が閉じこめられると考えたのです。何れも、数字に対する神秘主義的発想から生まれた思想に過ぎないものです。

古代の稚拙な思想に過ぎないものを無理矢理にこじつけ、現代科学にも劣らない理論であるかのごとく吹聴する姿勢は厳に戒めるべきです。

追伸
この記事は、拙著「中医学の誤謬と詭弁」にも記されています。詳しくは、カテゴリー「出版のお知らせ」をご覧ください。

看護師の長時間勤務はバーンアウトおよび患者の不満・事故の増加に関連する [らくがき]

病院における看護師の長時間の勤務シフトは、バーンアウト(燃え尽き症候群)、患者の不満、および安全性の問題と関連していたと報告されています。

現在アメリカでは、13時間以上の勤務シフトが増加しており、10時間以上のシフトでは仕事への不満は2.5倍以上高くなることが保健省の11月号に発表された研究で明らかになりました。

" Amy Witkoski Stimpfel, research fellow at the University of Pennsylvania School of Nursing, and colleagues wrote. "The results also highlight an area of healthcare ripe for policy development at both national and institutional levels."

4州、577の病院の看護師データの22,275名から、外科ユニットの集中治療室における看護師について分析。

また、患者の満足度を推定するために、医療提供者とシステム調査の病院・コンシューマー・アセスメントからのデータをプール。この調査は、看護師の調査を実施した期間(2006年~2007年)に実施。

勤務シフトは、8~9時間、10~11時間、12~13時間、および13時間以上に分類。看護師の約3分の2は12~13時間のシフト勤務をしていました。

10~11時間と13時間以上のシフトで、バーンアウトを報告した看護師の割合は高くなりました。この傾向は、潜在的な交絡因子について調整した後でも同様でした。

また、12時間以上の勤務では、自分の仕事を残す可能性が高いことも分かりました。

シフト長と患者の満足度とは関連しており、看護師が短いシフト勤務である程患者はより満足していました。これは十分な説明を得られるか否かが要因のようです。

さらに、有害な事象の10件中7件が、13時間以上のシフト勤務の看護師によって影響を受けたと報告書は述べています。

勤務シフト長と自主残業の制限を考慮して、看護師を尊重するポリシーの変更が求められています。これは病院に対する、患者の評価にも影響することを病院経営者は認識すべきです。

尚、このブログは“MedPage Today”の記事を訳したものであり、詳しい数値は不明です。

Nurses Burn Out on Long Shifts
By David Pittman, Washington Correspondent, MedPage Today
Published: November 08, 2012

チョコレートの消費量とノーベル賞受賞者数が相関するという研究(?) [らくがき]

フラボノイドが認知機能を改善すると言われており、チョコレートの消費量が国レベルの認知機能に影響して、ノーベル賞受賞者数と相関するのではないかと予想したようです。その結果、相関係数r = 0.791(P <0.0001)と極めて高い相関性がみられたいう、アホな研究が報告されています(スウェーデンを除外して計算すると、0.862に増加)。

国民1人当たりの年間チョコレート消費量と人口1千万人あたりのノーベル賞受賞者数(23カ国)との相関関係を求めています。

常識的に考えれば、「風が吹けば桶屋が儲かる」的なことで、見かけの関係に過ぎないことは明らかでしょう。相関係数では因果関係は証明できません。

それにしても、日本は最下位に近い。その理由は様々でしょうが、1つは、英語が苦手なことでしょう。例えば、私も論文作成の際にお世話になった「PubMed Centralアメリカ国立中央医学図書館」のホームページでは、世界の4500種類ほどの医学雑誌の、研究文献が収録されており、その全文が無料で見られます(PubMed では数万種、他にも「Scirus」など有)。しかし、これらの中には日本語で書かれた医学雑誌・文献はありません。因みに、アメリカの公的図書館は1日24時間年中無休です。

Franz H. Messerli,
Chocolate Consumption, Cognitive Function, and Nobel Laureates
October 10, 2012DOI: 10.1056/NEJMon1211064

患者の自己申告の危うさ [らくがき]

 “国立がん研究センターのアンケート調査”の報告で、「癌に罹患した」と回答した人のうち、40%は実際には癌に罹患していませんでした。一方、実際に癌に罹患した人のうち、アンケートに「罹患した」と回答したのは53%でした。

 この調査は、岩手、秋田、茨城、新潟、長野、大阪、高知、長崎、沖縄各府県の10保健所地域の住民約9万3000人を対象に、2000年から04年にかけて行ったアンケートの回答と、癌患者の登録症例を照合したものです。

 同センターの研究班は、「インフォームド・コンセントが普及してきた最近においても、癌罹患を自己申告から正確に把握するのは難しいことが判明した」と指摘しています。さらに、「自己申告のデータによる研究では、信頼性の高い結果を得ることができない」とも述べています。

この調査結果が意味することは、癌に限らず、聞き取り調査による”病名”は、疫学上の判断において誤りを生じる可能性があるということです。因みに、米国やスウェーデンの調査では、癌に罹患した人の約8割がアンケートに正しく回答したとのことで、「社会、文化や宗教などの違いが背景として考えられるとしています。

 念のため、多目的コホート研究では、癌、脳卒中や心筋梗塞などについて、保健所を通して病院や主治医より可能な限り正確な情報を収集しているようです。従いまして、5年後や10年後に実施したアンケートの結果だけで、対象者の方が病気に罹ったかどうかを判断するという方法はとっていないようです。

「がんにかかった」自己申告の4割は誤り-国立がん研究センター
医療介護CBニュース2011年5月27日(金)18:30
http://news.goo.ne.jp/article/cabrain/life/medical/cabrain-34374.html

 アンケート調査に限らず、問診の際の患者さんの申告、ムンテラに対する認識の低さなど、臨床においては嫌と言うほど経験することです。

 病気の説明に限らず、「人は、理解するのに精神的努力の最も少ない量の情報だけを取り入れる傾向が強い」のです。

 私のこれまでの経験から言えることは、“症状についての説明を求め、詳しい説明を一見良く聞いている患者程、こちらが説明しているその行為に満足(?)しているだけで、説明の内容は全く聞いていない”ということです。喩え聞いていたとしても、ほとんど記憶しておらず、都合良く内容を歪曲して理解し易い言葉で短くまとめます。そして後日、患者さんから自信ありげにとんでもない内容の話を、「私の説明」として聞かされます。 何度も落胆しつつ、もう30年も続けています。

 この経験を裏返せば、病院で医師に言われたとする患者さんの話は信用に値するものではないのです。しかし同時に、貴重な情報源であることも事実です。また、正しい説明をすることは診療上必要なことでもあります。

 患者さんの立場に立てば、脳の短期記憶の限度からみても、初めて聞く医学用語や病態の説明を正しく理解して記憶せよというのは無理があります。長い説明を記憶することは困難であり、患者さんが難しい医学的説明を、理解し易く端折って都合良く記憶することに対して非難はできません。何年経験を重ねても、“ムンテラ”は難しいことです。

性感染症の現代と江戸 [らくがき]

性意識の乱れによる性感染症の広がりが、性病科の医師たちによって指摘されています。しかし、本当にそうでしょうか。

梅毒の有病率で見ますと、江戸時代の市民の半数以上が感染していました。現在では、昔流行した梅毒や淋疾は減少し、性器クラミジア感染症、性器ヘルペス、尖形コンジロームなどの、自覚症状が現れにくいタイプが増加しています。単純に比較はできませんが、現代人の半数以上が何らかの性感染症に罹患していることはあり得ません。少なくとも江戸時代と現在を比較した場合には、現代の若者の性行動が乱れていると言う論拠は成り立ちません。勝手な想像や思い込みは危険です。

江戸時代の梅毒の蔓延状況について少し触れますと。 「下賎のもの百人中九十五人は梅毒にかからさるものなし」とは、幕府医学所頭取の松本良順が書いた『養生法』(1864)の記述です。まさか?江戸庶民の95%が梅毒に罹患していたのかと、疑いたくもなります。ですが、あの、『解体新書』の著者である、杉田玄白が70歳の時に書いた回想録の、『形影夜話』にも同様の記述があります。その中には、「病客は日々月々に多く、毎歳千人余りも療治するうちに、七八百は梅毒家なり」と記されています。何と彼が診療した年間の患者、1000人中700~800人は梅毒だったというのです。

当時の診断技術からすればこの数字の信頼性は疑問です。しかし、鈴木隆雄は、旧江戸市中から出土した900個以上の頭蓋骨を精査し、その梅毒性病変から梅毒患者の頻度は54.5%であったと推計しています。あくまでも大雑把な推定値であると言っていますが、江戸の成人のおよそ半数以上が梅毒に感染していたと考えて良いと思われます。

梅毒の蔓延は江戸に限ったことではなかったようです。沖縄では、感染者を「ふるつちえ」、未感染者を「みいつちえ:新人」と呼び、挨拶代わりに「みいつちえか、ふるつちえか?」と訪ねたといいます。こうした挨拶が平然と交わされた背景には、梅毒に感染したことを恥ずかしいこととは感じていない、当時の性風俗に対する認識があったと思います。

当時来日したキリスト教の宣教師フロイスは、「我々の間ではムーラ(横痃:梅毒による)にかかったら、それは不潔なこと、破廉恥なことである。しかし、日本では、男も女もそれを普通のこととして少しも恥じない」と驚いています。日本人が恥ずかしく感じなかったのは、梅毒と性行為の因果関係を知らなかったことに加え、公娼制度があったため、娼婦と交渉があっても恥じることがなかったのです。幕末に日本へ来て、初めて正式な西洋医学教育を行ったオランダ海軍軍医のポンペは、『ポンペ日本滞在記』の中で、遊女屋に対して厳重な医学的監督が必要であることを幕府に対し再三進言したが、身体はその人個人のものであるからと言って、全く聞き入れられなかったと回想しています。彼は「幕府は大切な義務を放棄している。その他の点ではあんなに美しい国なのに、政府の怠慢のために、年々何千人の人の家庭が不幸なめに会っている。」とも書いています。

日本の公娼制度と幕府の無責任が梅毒を蔓延させたことに間違いはないでしょう。ですが、私には、遊女屋の存在だけが梅毒蔓延の原因だったとは思えません。一昔前までは、日本では、若い男女が外で会話することは不謹慎とされていました。デートなどはとんでもないことでした。結婚相手も親が決め、結婚式当日に初めてお互いの顔を見るのは普通のことでした。確かに、公然と男女が会うことは厳しく戒められていました。

しかし、その裏では“夜這い”という行為が暗黙の内に認められていたことも事実です。男は日頃目を付けていた意中の女性の家に、夜中に忍び込みます。相手の女性にも気があれば受け入れられます。女性の両親も夜這いを知っていても知らぬふりです。何回かの交渉があり、お互いに意気投合すればめでたく結婚の運びとなります。他人から見える場所では清廉潔白を装い、影ではフリーセックスが公認となっていた。このような風習も性病蔓延の大きな要因の1つではないでしょうか。

1943年にマホニーらがペニシリンによる梅毒治療に成功し、患者は激減しました。時代の経過と共に、菌自体の毒性も弱まってもきました。その結果、報告件数は1970年に6,000件、2001年には567件と減少しています。しかし、治療効果の向上と罹患者の人数の多少とは無関係なはずです。数字だけ見ますと、現代人よりもむしろ江戸時代の方が表向きとは違い、性風俗は乱れていたとも言えるのです。

最近では、梅毒は再び増加しています。

漢方薬の保険除外は当然のこと [らくがき]

 行政刷新会議による、「漢方薬を保険適応外とする結論」に対し、反対の論旨が目立っています。私にはこの風潮は奇異に感じられます。寧ろ漢方薬は、医薬品としての審査からやり直すべきものです。それは、漢方薬が保険適応となった歴史的経緯と十分なエビデンスが得られていないことに大きな問題があるからです。

 私は鍼灸師ですが、従来より、医学に西洋も東洋の区別も無いとの立場で診療を行っています。医薬品も同様に、区別が存在すること自体に問題があります。現在、保険適応となっている漢方薬149種類が“正式な医薬品”であれば、当然保険適応となるべきです。しかし、……。

 昔、日本医師会の会長であった武見氏が政府に圧力を掛けて、漢方薬を保険適応にさせました(1976年健康保険採用)。従来、医薬品の認可には長い年月を掛けた臨床試験が必要となります。しかし、漢方薬は長い歴史があるとして、強引に本来行うべき臨床試験を免除して保険適応にさせたのです。

 つまり、「喧嘩太郎」のごり押しによって、無審査で採用されたものです。後になって、さすがにこれではまずいと、指導によって少しずつ臨床試験が行われ始めたとは聞いていましたが、何処まで進んだかは知りません。しかし、猛烈に反発している様子から逆に凡そのことが察しられます。エビデンスが確立されていない医薬品を公的保険から除外するのは当然です。

 日本東洋医学会は、4万人分の署名を提出して抗議するようです。しかし、その前にするべきことが有るはずです。現在保険適応扱いになっている、全ての漢方薬品の臨床試験を規定通り厳格に行うことです。審査をパスして初めて、医薬品と呼べるのです。既に済んでいるものは医薬品なのですから当然保険扱いです。医薬品を西洋薬や漢方薬と区別することはナンセンスです。本来、医学に思想を背景にした分類などあるべきではないのです。

 「保険外」への反対意見の例を見ますと。漢方薬には、西洋医学では治しにくい病気に効いたり、それを補完したりするものがある。例えば、膀胱炎では、抗生物質より漢方薬の方が湿疹は出にくいとされる。また、乳癌では、抑うつ状態を解消する漢方薬があり、抗癌剤を補完できる。さらに、副作用があったり、長期の経過観察が必要だったりする漢方薬もあり、この場合、医師の診断が必要になってくる。などがあります。

 これらの意見から、正規の臨床試験の必要性と、それらが不十分であることが読みとれます。効果の有無と副作用の審査を前提としていることの、正に裏返しになっています。

 術後の消化管機能異常に対する大建中湯、アルツハイマー型認知症への抑肝散、更年期障害のhot flashへの桂枝茯苓丸などに有効と言われています。しかしこれらも、客観的に説得できる十分なエビデンスは提示できていません。

 また、生薬には付き物の「不純物」による肝炎その他の障害や、製品の品質が不安定であることが漢方薬の問題点です。さらに、変異原性(発癌性)や胎児毒性などについて、十分な臨床検査が行われていないことも問題です。
 
 個別的に漢方診療をし、その”証”によって処方医が”さじ加減”で投薬することが、エビデンスを得られにくいことの言い訳にしている人もおります。しかしながら、「ツムラ漢方薬」の様にパッケージ化された「〇〇湯」を、適当に数種類組み合わせた処方は本来の漢方治療とも異なる医療形態です。しかも、中身の生薬成分の重複や相殺作用などはほとんど研究されていません。これでは「漢方薬治療」などと言えたものではありません。

 特に、この様にパッケージ化された漢方薬を複数服用した場合の副作用や健康被害が危惧されるのは「甘草」です。甘草は漢方薬の中では最もポピュラーな生薬成分で、医療用漢方薬の7割以上の109種に含まれています。それ故、数種類のパッケージ化された「〇〇湯」を同時に服用した場合、甘草の主成分であるグリチルリチンが重複して摂取量が高くなり、このグリチルリチンが腸内で加水分解されて生じるグリチルレチン酸の濃度が異常に高くなります。

 その結果、血清ナトリウムの上昇と血清カリウムが減少して高血圧・浮腫を招き、偽性アルドステロン症を引き起こす可能性があります。その症状には、筋痛、神経痛、心室性不整脈、筋麻痺、横紋筋融解症、四肢麻痺、腎不全などがあります。 実際に、国内での報告例も多く見られます。

 しかしながら、軽症例ではその症状の原因が気づかれないことも多く、因果関係が特定されない可能性も多いものと思われます。

 漢方業者と漢方処方医師たちは結託して、漢方は副作用が少なく安全であるという妄想を利用しています。”oo漢方”のような、パッケージ商品による大量生産・大量消費を漢方薬治療などと主張し、大きな利益を得ています。

 一般的には、妊娠中でも漢方薬なら安全と考えている方が多い様です。しかし、これは誤解です。例えば、漢方薬中によく含まれている「大黄」は腹部内臓にうっ血を起こす作用があるため、子宮のうっ血による早流産の危険性があります。また、変異原性もありますが、これらの注意書きが記されていないものも認められます。漢方薬であろうが、薬としての作用があるものは基本的には毒物なのです。使い方の違いで初めて薬と呼ばれるのです。全く無害のものは、効果も全く無いのです。

 批判覚悟で言いますと。現代において、「東洋医学」とか「漢方」などと区別すること自体がナンセンスなのです。医学に西洋も東洋もありません。医学は「医学」です。薬品も同様です。さらに言えば、2000年以上昔の自然観や思想を基にした、凡そ医学とは呼べない古典に従って診療することは愚かです。

 私は、漢方薬とは医薬品と食品の中間に位置するものとして捉えています。漢方薬は一般用医薬品においては第2類の医薬品です。基本的には、医療用としてはそぐわないもの、現状では医薬品とは呼べないものであると考えています。「医薬品」であると主張したいのであれば、先ず、本来の医薬品に課せられている正式な臨床試験を行い、審査にパスするべきです。

 多くの利権(医療用漢方薬の市場規模は1069億円)が絡んでいますから、このまますんなりと保険外にはならないでしょう。医薬品メーカーの利益を守ることが厚労省の本意ですから。「漢方薬」という、まるで治外法権のごとき存在をこのまま是認すれば、世界の潮流であるエビデンスに基づく医療から取り残されることになります。公的医療保険給付なのですから、厳正な審査を受けていない漢方薬の給付削除を勇気をもっておこなうべきです。


耐性菌の起源と免疫調節不全から分かること [らくがき]

 これまでの感染症の減少は、抗菌剤や化学療法の普及によるものでしょうか。個々の事例で見ますと、多くの瀕死の患者を救ってきたことは確かですが、人口全体で考えた場合は少々違う様に思われます。
 
 例えば、日本では1940年以降結核による死亡率は減少しました。この期間の減少は、抗菌剤が普及し始めた1950~1960年の間よりも大きなものでした。イギリスでも同様で、1947年のストレプトマイシンの出現以前に大幅に減少していました。この原因は、栄養状態の改善、教育の普及、下水道の完備、食品衛生の管理などの進歩によると言われています。
 
 ところが、平成9年に、新規発生結核患者数が38年ぶりに増加しました。この原因として、医師の認識不足による診断の遅れと、多剤耐性菌の増加が言われています。いずれにしても、感染症を抗菌剤のみによって撲滅することは不可能ではないかと思われます。
 
 いま、腸内細菌科に属する細菌において、染色体上の4つの遺伝子が突然変異を起こして4剤耐性菌が生ずると仮定して計算してみますと。1つの抗菌剤に対する耐性になるための遺伝子の突然変異は菌1個、分裂1回当たり平均10の-7乗として、4剤耐性になるには10の-28乗すなわち10の28乗分の1になります。この値は、成人1人がもつ腸内細菌科に属する菌10の11乗個の10の17乗人分で、総人口を100億としても10の7乗、つまり全人類が持つ腸内細菌の1000万倍の細菌が必要となり、現実には起こり得ないことです。

 このあり得ないことの証拠としての実例があります。1961年に合成された、アンピシリンに対する耐性を持った伝達性Rプラスミドが、1956年の大腸菌分離株の中で発見されていることです。アンピシリンが未だ存在していない時期に、これを強く不活化するベータラクタマーゼが、すでに菌体内に存在していたことになります。

 多くの抗菌剤はストレプトマイセツから作られます。この事実から推測しますと、ストレプトマイセスは自分自身が作った抗菌剤から身を守るために不活化酵素をもっていて、この抗菌剤産生ストレプトマイセスの不活化酵素とRプラスミド上の抗菌剤耐性遺伝子が支配している不活化酵素の間には、進化上密接な関連性があると考えられます。恐らく、自然界には抗菌剤に似通った物質がまれに存在していて、これに対向するための不活化酵素を作る遺伝子をもったRプラスミドが少数ながら存在していた。緊急事態になると、即座に他のバクテリアにもこの遺伝子が伝達され拡散すると考えられます。

 この拡散は、形質転換や細菌間の接合によるRプラスミドの伝達による形質導入や、動く遺伝子(トランスポゾン)による転移によって積極的に伝達され短期間に耐性が拡散します。

 生物の最も重要な特徴は進化速度が速いことです。ダーウィン進化機構は進化リアクター・セルスタットを使用した実験でも確認されています。この様な物質的実験でも、材料を投入するだけでDNAが構成され、急速に進化します。実際の生物では、さらに、突然変異や相同組み変えが急速に進展します。
 
 この様に見ますと、抗菌剤の効果は一時的なものに過ぎず、感染因子を叩くことは逆に耐性菌・耐性ウイルスの蔓延を引き起こすことによって負の遺産となり、その行為は“総合の誤謬・延長の誤謬”であると言えるのではないでしょうか。
 
 ここでもう1つ注目すべきことは、サイトカイン・ストームです。感染症は、感染因子の生物学的な活動性と、これに対する生体反応としての炎症と獲得免疫の総和です。これらの中でも、特に注目したいのは過剰な炎症反応です。ウイルス関連血球貪食症候群、インフルエンザ脳症、敗血症に見られるように、感染因子の侵入は引き金とはなっていますが、現れている病態は過剰な炎症性サイトカインによる病態で、サイトカイン・ストームによるものです。A型インフルエンザ・ウイルスH5N1の強毒性もこのサイトカイン・ストーム誘導作用にあると言われています。
 
 例えば、マウスを使ったA型インフルエンザの感染では、TLR3を介した自然免疫反応が起こり、ウイルスの増殖は抑制されましたが、過剰な炎症性サイトカインによって肺炎が悪化しマウスは死んでしまいました。これと似た現象が小児科の臨床で増加していると聞きます。「自然免疫システム」のさらなる解明が急務と思われます。
 
 感染症はインフルエンザなどのような死の転帰をもたらす疾患としてだけではなく、RSウイルスは気道過敏性に関与し、喘息、反復性喘鳴の独立した危険因子であることが示されています。また、薬剤性過敏症症候群(DIHS)は薬疹であると同時にウイルスの再活性化でもあります。最近では、多くの疾患が、感染因子の抗原との分子相同性によって交差反応を引き起こした、自己免疫疾患として認知されるようになってきました。ギラン・バレー症候群、クローン病、ライム病、Ⅰ型糖尿病など多くの疾患が感染症の続発症と考えられています。この様に、感染症によって引き起こされる、生体側の反応と病態にさらに注目する必要性を感じます。 

 現在、インフルエンザのパンデミック(一般人口への広範囲な感染伝搬)が近いと警戒されており、鳥インフルエンザなどのワクチン開発が進められています。このような中で、呼吸器系・消化器系の感染症の分野を中心に粘膜ワクチンの有効性が言われています。自己免疫疾患やアレルギーの分野でも、過剰な免疫応答を常に制御している粘膜免疫を応用することが、有効な治療法の開発に繋がる可能性があると期待されています。
 
 感染症を感染因子だけではなく、生体側の反応として、自然免疫や炎症のメカニズムをさらに研究することは、単に感染症への対策となるだけではなく、病態や治療法の概念にも大きな変革が期待できるように思うのですが。

参考文献
吉川昌之介, 細菌の逆襲, 東京, 中央公論社, 1995.

気功の危うさ [らくがき]

 “気功”について議論するには、生体活動によって放射される電磁波、治療行為に対するプラシーボ効果、トランス状態などに見られる脳機能の特殊性に分けて考える必要性があります。
 
 そもそも“気功”とは、世間が言うような特異な現象でしょうか。“気功”の中でも、一般に話題となる“外気功”そのものは、生態が発する電磁波に他なりません。この電磁波の波形や強度の個人差が術者の特性として、被験者への作用に差を及ぼすことはあり得ます。しかし、さらに重要な要素として、治療行為の受けて側の反応性があります。この受けて側の反応性には、プラシーボ効果と、トランス状態を引き起こす脳機能の特性が関与しています。

 私は、これまでに“気”の誤解や幻想を書いてきました。ブログを読まれた方の中には、「では、“気功”はどうなんだ。この“気”を説明してみろ!」といった、意見や批判もあると思われます。私自身では、“気功”についての実験はしていませんが、文献などから判断した考えを述べてみます。

 気功による生体の反応を整理しますと、報告による差はありますが、信頼できる作用としては体温の上昇,リラクゼーション,トランス状態(個人差有)位です。体温の上昇、温感、リラクゼーションなどは自律神経を介する些細な反応であり、大袈裟に評価する様な現象でも効果でもありません。
 
 外気功はプラシーボ効果(プラシーボ効果;偽薬については以前に紹介)そのものであるとする研究報告が、私には信頼できるように思われます。群馬大学医学部神経精神薬理学の丸山教授と、行動薬理学の田所名誉教授の報告では、外気功前後で、血液成分、神経化学物質、アミノ酸等の82成分で全くの変化が見られませんでした。さらに、犬やラットでは行動に全く変化は無く、大腸菌を使った実験でも変化は認められませんでした(中国では、大腸菌を死滅させたとする報告がありますが、ほとんど信用に値しません)。

 つまり、気功とは、、気功についての先入観が有る人間に対してのみ効果を示すという証拠です。この研究では、気功師ではない人に、気功師の話し方、動作を真似させて実験を行っています。偽気功師でしたが、1/5人がトランス状態になりました(気功師で3/5人)。また、被験者は一様に、その効果を実感し気持ちよかったと述べてもいました。
 
 もう1つの現象として、トランス状態があります。外気功によって一種の金縛り状態になります。この状態はレム睡眠に近いのではと思われましたが、この状態の被験者に単語による記憶テストを行うと、覚醒後にも正しく記憶していました。レム睡眠様の状態で認知機能が保たれていることは説明できません。但し、これを神秘的に捉えるのはあまりに稚拙です。トランス状態に限らず、脳機能は未解明な部分の方が未だ多く、今後の研究によって解明され、治療などに応用されることが期待されます。

 最後に、生体が放射する電磁波ですが、これは特殊でも奇怪な現象でも何でもありません。ごく普通の現象です。人が指を動かそうとしますと、神経線維を電気信号が伝わります。当然、周囲には磁場が発生します。この磁界は微弱であるため以前は測定が困難でしたが、今では、超伝導量子干渉素子(SQUID)磁束計が開発されたため、神経から発生する微弱な磁界もリアルタイムで観察・測定可能となりました。この磁界の強弱を等高線で色づけして視覚化しますと、神経に沿って腕の周囲に四重極子と呼ばれる4つの同心円が50~60m/secで移動する様子が見事に見えます。また同時に、筋肉が収縮活動すると同様に電磁波を発生します。これらの電磁波は周囲にいる人に対しても、若干の影響を与えることは否定しません。自立神経に作用して、血流の促進や鎮静効果などを生じることは容易に予想されることです。

 余談になりますが、犬やネコがその主人の帰宅を察知して玄関で待っていることは良く知られています。家から100m程の距離まで近づくと、犬には分かるようです。これは、歩行による筋の活動によって発せられた電磁波を察知しているようですが、その電磁波の波形には個人差があり、犬はそれを判別できるようです。想像ですが、人でも無意識のうちに、受ける電磁波の波形によって“心地よさ”などに違いが現れるのではないでしょうか。

 ある報告(某免疫研究所?)では、気功によって放射される電磁波は4~14μmであり、この電磁波は食品の鮮度の維持、汚染水の浄化、好中球の遊走性の亢進、癌細胞の抑制などの作用があるとしています。…?波長が4~14μmといいますと、可視光線と赤外線の境当たりの電磁波で、ごく普通にその辺に飛んでいますが?。

 この様な、危うい話はけっこう有るものでして、「バイ・デジタルO-リングテスト」などもその1つであると、私は思っています。これは、ニューヨーク心臓研究ファンデーション研究所所長を務めていた大村恵昭氏が、1978年に論文発表した診断法です。(この内容は省略します)
 海外から、蒼々たるメンバーをゲスト講演者として招いてのシンポジウムなど華々しく紹介されていました。が。氏は何と、20階のビルから1階に置かれた紙に向かって“気”を放ち、この気をビルを透過して紙に溜めたと言うのです。さらに、この紙を患者の患部に張るという治療もやってのけました。これは何かのオカルト教団の集会でしょうか。名のある医学部教授の行為とはとても思えません。

 紙で止まる程度の透過力といえば、電磁波ではα線レベルです。それが20階立てのビルの床や天井のコンクリートを透過してしまうと平然と言える、詐欺師的神経か物理知識の欠如か、オカルト教祖的異常者なのか、私には分かりませんが。

 気功を肯定して宣伝した研究論文は、総じて質の低いものが目立ちます。地位や名前に騙されないこと、実験内容を良く検証することが肝要です。
 

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