黄帝内経における「腎」と水・骨・耳との関係とは [蔵象観の起源と真実]

「腎」と水との関係
 『素問』上古天真論篇の「腎者主水.…」や逆調論篇の「腎者水蔵.主津液」など、「腎」が水の臓腑であり、水を司るとする記述は何を意味するのでしょうか。腎臓によって尿が生成されることは現代人には常識ですが、『黄帝内経』ではそのような腎機能の認識はなく、尿を膀胱へ送る輸尿管も発見できてはいません。現代の中医学や漢方家は、腎臓で尿が作られるという医学の常識によって、『黄帝内経』でも認識しているかのごとく錯覚して解説していますがこれは全くの誤りです。では、「腎」と水とを関連づけた動機はいかなるものでしょうか。

 通常、腎臓を解剖しても腎盂内の尿は僅かであり、「水の蔵」としてイメージするには無理があります。恐らく、水腎症の腎臓を解剖し観察して得られた知識であると推測されます。本症は、腎臓の先天性の奇形の中では最も多く、尿管結石などによる成人発症もさほど珍しくはありません。極端な例では、腎臓が腹部全体に拡大して5000mlにも及ぶことがあります。大きく拡張した腎臓の腎盂、腎杯では、中に貯留した大量の尿を観察できたはずです。このような腎臓を見て、「腎」が水をコントロールするとする発想が生まれたものと考えられます。  
 
 このように、腎臓に貯留した水から腎臓と体内の水との関わりを想像し、浮腫などの水が貯留する病態を腎の病症として認識したものと考えられます。すなわち、『黄帝内経』に記された、身体の浮腫を「腎」の病症として位置づけた動機は、腎臓による尿の生成機能の異常によって生じた病態としての認識ではない、と考えることが妥当です。現代人は、医学知識の先入観によって、無意識のうちに古典の意味を過大解釈する傾向があります。しかし、『黄帝内経』当時には医科学は未だ存在していないことを念頭に記述内容を読み解く必要があります。

「腎」と耳および骨との関係
 以前に、このブログで「命門」の意味についての私の仮説を紹介しました(「内経こぼれ話“腎と生殖器・命門の関係”」2009.7.25.カテゴリー;古典のトピックス)。重複しますが、耳と骨との関係の説明上必要ですので簡単に述べます。

 先ず、一般に言われている「左腎右命門学説」は『難経(正確には「黄帝八十一難経」)』の記述によるものです。これは後漢の時代の文献であり、『黄帝内経』には右腎を命門と呼ぶ記述はありません。『黄帝内経』では、『霊枢』根結篇に、「太陽根於至陰.結於命門.命門者目也」と記されており、これは晴明穴の部位を命門であると述べたものです。

 全く無関係に見える2種類の「命門」が存在し、従来、その意味を解明した者はおりません。私は、一見全く違うこれらの記述は共通するものと推測しています。

右腎=命門とは、腎臓の片側性欠如からの認識
 解剖によって、腎無発生の奇形のうち片側性欠如(1/1,000人の頻度)を観察した知識によるものと推測されます。片側性欠如は通常左腎に起こりますが、この場合、他方の腎臓が代償性に肥大して機能を代行するため身体に影響はありません。成人になって後の死亡後に解剖し、左側が無くとも影響が無いことを知りました。これに対し、両側が欠如した場合には生きられないことも知り、右側の腎臓が重要であると考えて「命門」と呼んだものと推測されます。

命門=「太陽根於至陰.結於命門.命門者目也=晴明穴部位は、両側性腎無発生
 両側性腎無発生は、1/3,000人の頻度で起き、出生後生き延びることはありません。この様な新生児は特徴的な顔貌をしています。両目が広く離れ、眼内角贅皮(epicanthic fold)があり、耳は低位にあって、鼻は広く扁平でオトガイが後退しています。また、四肢にも奇形が見られます。

 両側性腎無発生では手足の奇形や耳にも変異があって生きられず、その新生児の内眼角には特徴があってその奇形を知る手掛かりとなることから、この晴明穴の部位を「命門」と呼ぶ認識が生じたものと推測されます。

 一見全く違う2種類の説ですが、実は、どちらも腎臓の奇形と、その結果起こる事態から発想したものと考えられます。この認識は、さらに、「腎」と骨および耳とを関係づける動機となったものと推測しています。尚、『難経』以後にも命門の意味に対して諸説ありますが、全く無意味であると考えますので省略しました。

「腎」が支配する骨と耳とは
 このように、『素問』六節蔵象論篇の「腎…其充在骨」、および宣明五気篇の「腎主骨」や、『霊枢』脈度篇の「腎気通於耳.腎和則耳能知五音矣」など、腎の作用によって骨や耳が形成されて機能するとの認識は、いずれも両側性腎無発生の新生児の観察をもとにした発想であると推測されます。

 前述したように、両側性の腎臓欠如の場合には出生後生き延びることはないため、人の成長には「腎」の作用が不可欠であると考えました。また、このような新生児の特徴として、耳が低位値にある異常と、四肢の奇形があります。これらの知識から、「腎」の作用によって、耳と骨は正常に発達できるものとする認識が生じたものと推測されるのです。

 『黄帝内経』の理論は医学が未だ無い時代の稚拙なものではありますが、実際の解剖と臨床観察を結びつけ、当時の自然観や思想的背景によって理論付けをしています。現代医学知識による先入観を排除して読み解けば、『黄帝内経』はまか不思議な別系統の医学でも、荒唐無稽な抽象概念でもないことが分かります。編纂当時の認識過程を解明することは、中医学理論の問題点を根本から考え直すための重要な一歩となります。

 尚、この記事は現在執筆中の原稿の一部であり、鍼灸関連の雑誌などには未発表のものです。

追伸
本記事は、拙著「中医学の誤謬と詭弁:2015年1月出版」にも記されています。本書は、黄帝内経における臓腑経絡概念の本質を解読・検証したものです。市販はしておりませんが、希望される方には、個人的に販売しています。申し込み方法は、カテゴリー「出版のお知らせ」をご覧ください。


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