絞扼性神経障害の多重発症 [鍼治療の臨床]

 胸郭出口症候群、筋皮神経およびStruthers’ Arcadeによる尺骨神経の多重障害と思われた症例について。

 絞扼性神経障害(Entrapment neuropathy)は、鍼灸の臨床においても頻繁に遭遇する疾患です。また、これらの患者さんの中には、単一の神経が重複して絞扼される重複性絞扼性神経障害(Double crush syndromeまたは Double lesion neuropathy)が少なからず存在します。
 Double crush syndrome はUptonら1(1973)によって提唱された概念で、単一の神経の1点でsubclinicalな絞扼があり、その末梢にさらなる軽度の絞扼が加重した場合には、軸索流の障害が増して神経の易損性を生じ臨床症状を呈するというものです。
 この仮説は、根本らによるイヌの坐骨神経を用いた実験でも証明されており、彼らはcrushという表現は適切ではないとして double lesion neuropathyという名称を提唱しています。
 
 今回は、胸郭出口症候群に烏口腕筋貫通部での筋皮神経の絞扼と、Struthers’ arcadeによる尺骨神経の絞扼 が合併したと思われた症例について述べます。
 これまでの筋皮神経麻痺の報告例は、外傷か手術時の損傷によるものが多く、絞扼性神経障害による症例は少ないようです。
 Struthers’ arcadeによる尺骨神経麻痺は、尺骨神経溝における遅発性の尺骨神経麻痺に対する神経の前方移行術の際に、この腱弓が存在する場合にはこの部位で新たな絞扼が起こる可能性があると、Spinnerによって指摘されています。特発性の本症は、投擲競技のスポーツ選手などの報告例が散見される程度です。
 この症例のように、複数の神経が明確なかたちで急性発症した症例の報告は記憶にはありません。神経伝導速度の測定や筋電図などの検査を行うことはできませんので確定診断はできませんでしたが、愁訴と知覚障害の分布.諸テストの結果と治療結果を総合して、可能性は高いものと考え鍼灸の専門誌に(医道の日本誌65; 86-91.2006)報告したものです。

Struthers’ Arcadeによる尺骨神経の絞扼性神経障害とは

 Struthers’ arcade(腱弓)はStruthers(1854)によって初めて報告されたものです。その後、Kane,Kaplan,Spinnerらは剖検にて20肢中14肢(70%)に存在を認めたと報告しています。この腱弓(図1)は上腕骨遠位部の深層筋膜が肥厚したものと、上腕三頭筋内側頭の浅層筋線維および内側上腕靱帯の付着部とにより構成されています。 従来この腱弓の臨床的意義は、尺骨神経溝における遅発性尺骨神経麻痺に対する前方移行術の際、この腱弓が存在する場合にはこの部位での新たな絞扼障害が起こる可能性があると、Spinnerによって指摘されたことにあります。しかしながら、臨床的には投擲競技のスポーツ選手や、重量物を抱えて支えるか挙上する作業を行う人などに、この腱弓の裏面を通過する尺骨神経の絞扼障害が散見されます。
 症状は、肘・前腕内側の疼痛としびれ感を訴え、時に上腕内側にも疼痛が及びます。上腕骨内側上果より約8㎝近位の上腕二頭筋・上腕筋の後側で腱弓部に圧痛とTinel’s signを認めます。知覚障害は、内側前腕皮神経支配域以下の支配域に生じます。経験上、軽症例が多いのですが、最近では、突然に掌側骨間筋の運動麻痺を起こして来院した症例も経験しています。

筋皮神経の絞扼性神経障害とは

 筋皮神経は腕神経叢の外側神経束より起こり、烏口腕筋へ分枝しこれを支配した後、本幹は烏口腕筋を貫通(図1)します。その後、上腕二頭筋と上腕筋へ分枝した後、後外側前腕皮神経となり前腕外側の皮膚知覚を支配します。
 筋皮神経麻痺の報告例はその多くが外傷か手術時の損傷によるもので、絞扼性障害は極めて少なく、これまでに筆者が知り得た報告例は9例(報告時点).のみです。しかしながら、頻度は少ないものの、重量物の支持・挙上などの動作や、スポーツ選手の投球動作,ボート漕ぎなどを誘因として発症した軽症例が散見されます。

絞扼性神経障害(entrapment neuropathy)の基本的鍼治療法(先述)

1.絞扼に関与する筋群の緊張緩和を目的とする刺鍼
2.entrapment point(絞扼点)への刺鍼(emancipate method)
 
 特発性と思われる絞扼性神経障害の患者のほとんどに、絞扼に関与する筋群の過緊張や硬結を認めます。神経が筋を貫通する部位や筋の縁での絞扼であれば、この筋の過緊張は直接的に誘因となります。また、fibrous bandやosseofibrous bandでの絞扼であっても、神経に接して通過する筋・腱の過緊張がtunnel内部のうっ血による内圧の亢進,神経と筋・腱とのglidingや伸延性を制限して、間接的に誘因となることが推測されます。したがって、これらの筋群の緊張緩和処置は、軽症例に対しては即効的であり根治的な治療法とも言えます。
 entrapment point(絞扼点)に対する処置として、私が行っている刺法は、刺入後鍼先に抵抗を感じた時点で小刻みに捻鍼し、筋などの索状物の絡みつく抵抗を感じたならばこれを緩めずに速やかに小振幅に引き上げる手技である(EM)。また、fibrous bandやosseofibrous band部位に対しては深く刺さず浅刺して、抜鍼後抜罐法を併用します。
 運動麻痺の筋や知覚障害を起こしている部位への刺鍼は積極的には行っていません。現時点では、神経回復を促進する直接的な効果はないと考え、原因に対する治療を中心としています。また、運動麻痺筋に対する低周波電気刺激については賛否両論ありますが、私は否定的立場であり行ってはいません。
鍼治療による著効例は神経変性に至っていない段階で、神経束内の静脈環流障害を主因とする一種のminiature compartment syndromeと思われ、私の治療法は、総合的には除圧効果が中心と考えています。

症 例

患者 :73歳.女性.無職
家族歴・既往歴:特記すべきことなし。神経の易損性を引き起こす内科的疾患もない。
現病歴:2週間前より特に誘因もなく、前腕内側から手にかけてしびれ感が発症した。1週間程経過した頃、庭の草取りをした翌日に疼痛が出現し、痛みは上腕内側より前腕内・外側に及び、しびれ感も増悪した。また、肘関節の伸展で前腕尺側に痛みが誘発されるため完全には伸ばせない状態となった。夜間痛が強くたびたび覚醒するため熟睡できない。  箸をうまく使うことができないため、おにぎりやパン食にしている。
これまでに数カ所の医院を受診し、電気治療や温熱療法を受けたが効果がなく、昨日、傍内科(?)にて腕神経叢ブロックを受けたが効果なく、痛みが増悪したため当院を受診した。これまでの病院では、原因についての検査は全く行っておらず、昨日の医院でも、頚椎.上肢の診察はせず、血圧測定後直ちにブロックを行っている。したがってこれまでに原因・診断名は全く説明されていないとのことである。
現 症:Jacson’s compression test(-),Spurling’s test(-),Wright test(+),肩関節外転.50°で脈が消失するためAllen testは不可,水平外転にて上腕内側と指先に痛みが誘発されたが、これは、大胸筋および烏口腕筋の伸展が刺激となっているものと考えられた。Morley’s sign(+),Adson test(+),Halsted test(+)であった。斜角筋群に異常な過緊張と硬結を認め、大胸筋にも過緊張が認められた(図2)。知覚は橈骨・正中・尺骨神経の全ての領域で痛覚が7割程度に鈍磨していたが、4・5指の掌側でDIPjの末梢と、前腕前尺側および橈側の一部にhyperalgesiaを認めた。箸の操作にぎこちなさを感じるとのことで巧緻動作の障害も疑われたが、筋力には明確な低下は認められず、Cross finger test.Egawa徴候.Wartenberg徴候いずれも正常であった。上腕部の触診では、烏口腕筋を中心に上腕筋および上腕三頭筋内側頭上部に及ぶ異常な過緊張・硬結と圧痛を認めた。さらに、筋皮神経の烏口腕筋貫入部と思われる部位と、Struser’s腱弓の存在は周辺の緊張が強く判然とはしないものの、この付近には特に強い硬結.圧痛とTinel様徴候が認められた。肘関節の伸展による前腕尺側への痛みの誘発は、上腕筋の伸展がStruthers’ arcadeに対し何らかの刺激となっている可能性が考えられた。痛覚が過敏であった領域は筋皮神経の終末枝である前腕外側皮神経支配域と尺骨神経支配域であった。肘部管,手根管および橈骨管には異常は認められなかった。
以上の所見より、頚椎症による神経根症,肘部管症候群,手根管症候群,および橈骨管症候群は否定され、胸郭出口症候群に筋皮神経の絞扼性神経障害とStruser’s arcade付近での尺骨神経の絞扼性神経障害の多重発症が考えられた。
治療 :鍼治療は筋の硬結・過緊張の緩和を目的として、中斜角筋に対しては後天窓(私穴)へ散鍼,上腕筋へは硬結部へ散鍼,烏口腕筋およびStruthers’arcade付近のentrapment pointへはEM,.上腕筋・上腕三頭筋内側頭への散鍼,大胸筋へは中府と、小結節上の硬結部位への散鍼を行った。また、補助穴として督兪.天宗.承山.尺沢へ留鍼した。
 これらの治療法を基本として行ったところ、翌日、第2診の来院時にはしびれ感は消失し、痛みは5/10に軽減していた。痛みは第3診後消失したが、dullnessがあり、箸はまだ使いにくく、手を握った際に違和感が残るとのこと。第4診時点で前腕のhyperalgesiaは消失したが、違和感は1/10程度残っている。肩関節外転80°で脈は消失する。第7診後違和感は消失し、箸の使用に不便は感じられないとのこと。痛みおよびしびれ感も全くない。斜角筋と上腕内側にまだ若干の硬結・緊張は残るものの、ほぼ軽快と判断して定期的な治療は終了し、今後しばらくは注意して経過観察を行うよう説明した。また、今後は少しずつADLを広げるとともに、上腕のストレッチを行っていくことを指導した。
 一週間後、腰痛にて来院。上肢の状態は良好とのことだが、未だ怖いので家事は極力控えめにしているとのこと。斜角筋と大胸筋に軽度の緊張と圧痛を認めるが、Wright test,Adoson test,Morley’s signはいずれも陰性であった。上腕では、烏口腕筋を中心に上腕二頭筋後側に軽度の緊張と圧痛を認めたが、症状はないとのことであった。腰痛の治療にこれらの筋群への散鍼を加えた。以後、再発はない。

 重複性絞扼性神経障害は少なからず存在しますが、この患者さんは極めて稀なケースでした。無論、手術的に内部を確認した訳でもなく、神経伝導速度や筋電図の検査も行っていないため推測の域を出ないことは否めません。しかし、伊藤らは、本症の診断に最も有効なことはこの病態の存在を知ることであると指摘しています。
 これらの疾患は胸郭出口症候群.肘部管症候群および頚椎症による神経根症状として誤診されていることが予想され、実際は、認識されている以上に多く存在するものと思われます。
本症例は、胸郭出口症候群の中でも、斜角筋群の過緊張とMorley’s testの陽性Adoson testの陽性から斜角筋症候群が考えられますが、Wright testが強陽性であることから、烏口突起下で小胸筋と胸壁の間または肋鎖間隙における圧迫や、大胸筋の緊張も強いことから、大胸筋と上腕骨頭間での圧迫も考えられました。 
 胸郭出口症候群はその疾病としての名称は有名ですが、病因は複雑で病態も曖昧な点が多く、各種の誘発テストは正常者でも10~30%弱の陽性率18.19.があり、誘発テストのみでは確定はできません。したがって、あくまでも胸郭出口症候群の可能性は高いと推測し、他覚的に過緊張が認められた筋に対し治療しました。
 今回の症例は胸郭出口症候群に、筋皮神経とStruthers’ arcadeにおける尺骨神経の絞扼性神経障害が合併した多重発症と思われました。各々の絞扼部位での筋の過緊張を確認し、これらの筋群への刺鍼にて著効が得られたことより、病態に対する判断の正当性はあるものと考えています。但し、ある一カ所の絞扼によって神経が過敏になるなどの、何らかの反応によって他の部位の誘発テストが陽性になることもあり得ます。また、頚椎症性脊髄症や癌の脊椎転移の患者で、末梢神経へのブロックの有効例もあるため、治療的診断にも問題点.はあります。

 本症例は一般的には極めて稀な症例であり、私の病態判断が直ちに正当化されるかについては、意見は分かれると思われます。日常の診療においては、subclinicalか極軽症の絞扼性神経障害に、頚椎症や腰椎疾患が合併したものと思われる患者にしばしば遭遇します。このような患者さんは、誤診ないしは見過ごされていることも少なくありません。この患者さんも、数カ所の医療機関で原因についての診察・検査が全く行われておらず、医学的な情報も得られませんでした。このような状況は最近増加しており、医師の質の低下は危惧される問題です。
 我々鍼灸師には公的な意味での診断権はありませんが、治療に際しては正しい病態判断は必要不可欠です。医学的な病態判断に基づく、鍼灸師にとっての診断学が必要であると考えています。

img008.jpg

追伸

2015年3月に、「絞扼性神経障害の鍼治療」を出版しました。本書は市販はしておりませんが、個人的に販売しています。詳しくは、カテゴリの「出版のお知らせ」を見てください。

 引用文献
Upton, A. R. M et al. : Hypothesis : The double crush in nerve-entrapment syndromes. Lancet, 2: 359-362, 1973.
根本考一:末梢神経障害に関する実験的研究.日整会誌,57:1773-1786,1983.
Dundore DE:Musculocutaneous nerve palsy ;an isolated complication of surgery. Arch Phys Med Rehabil 60:130-133,1979.
Spinner,M.:手の末梢神経障害 第2版,208-239,東京 南江堂,1981.
伊藤恵康ら:スポーツ選手にみられるStruthers’ Arcadeによる尺骨神経のentrapment neuropathy,臨床スポーツ医学.14;795-798.1997.
Kane. E. et al.:Observations on the course of the ulnar nerve in the arm, Ann. Chir.27;487-496.1973.
Spiner.M. et al.:The relationship of the ulner nerve to the medial intermuscularseptum in the arm and its clinical significance.,Hand8;239-242.1976.
Braddom RL et al: Musculocutaneous nerve injury after heavy exercise,Arch Phys Med Rehabil 59;290-293,1978.
Kim SM:Isolated proximal musculocutaneous nerve palsy:case report .Arch Phys Med Rehabil 65;735-736,1984.
Omer CE Jr:Management of Peripheral Nerve Problems,WB; Saunders;589.1980.
Mastaglia FL:Musculocutaneous neuropathy after strenuous physical activity.Med J Aust145;153-154,1986.
矢吹省司ほか:筋皮神経のentrapment neuropathyの1手術例,整・災外33;525-528,1990.
管 俊光:大胸筋による胸郭出口症候群の1例,整外45;266-267,1994.
立石昭夫:胸郭出口症候群の診断と治療,日整会誌54;817-827,1980.
片岡泰文:胸郭出口症候群の病態,日整会誌68;357-366,1994.
貞廣哲郎ほか:上肢のentrapment neuropathyにおける胸郭出口症候群の問題点,整・災外29;1729-1735,1986.

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0